ホオジロのさえずり

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help リーダーに追加 RSS 楼蘭の美女

<<   作成日時 : 2008/01/03 10:30   >>

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以前、NHKの番組でシルクロードシリーズの一つに「楼蘭の美女」という番組がありました。色白で端正で美しい高い鼻に黒く長いまつげがそのままで、年は16〜18歳くらい麦の種籾を入れたポシェットを持ち、麦で編んだ帽子を被ったコーカサス系のそれはそれは美しい少女のミイラ一体が楼蘭の地で盗掘も損傷もされずそのままの姿で見つかったことを紹介したものでした。ご覧になった方も多いかと思います。

何と紀元前19世紀に作られたもので小舟のような木の棺に入れられたミイラの姿でした。この楼蘭の地は今でこそ荒涼とした大砂漠地帯ですが、4000年前の当時は広大な穀倉地帯だったそうです。数千年の時を経て、いつしか人々が営んでいた穀倉地帯の緑は土莫に変わり、更にその土莫も砂漠に変身し、激しい砂嵐で出来た深い砂の中にこの墓も埋もれて、人々に場所さえも忘れ去られていました。極まれに砂嵐の激しい風によって深い砂層が吹き飛ばされて忽然とこの墓場が幻のごとく姿を現わしてはまた深い砂に埋まっては消えることを繰り返していたようです。

誰もこの地を訪れることもなく、灼熱の太陽と満天の星の下でこの美少女は4000年もの間、その近くにごく少数葬られていた人々と一緒にこの地中で眠り続けていました。ところがこの美少女の一体のみが保存状態が特別に良かったせいもあって当時の姿そのままで掘り出され、その姿はたった一人で寂しく、この大宇宙に浮ぶ小舟の中で4000年もの時を越えて荘厳な宇宙の大海をさ迷い続けていたようにも見えます。

ポシェットに入れられた麦の種籾をみますと「この籾さえ持っていればどこに行っても豊かな天の恵みを得て、飢えるこのなくいつまでも幸せに生きて行ける!」との、当時のこの地の人達の考え方が4000年の時空を越えて強く伝わってきます。
私はこれを見て恐らくは彼女のご両親もしくは恋人が彼女の死を慟哭して「彼女が麦で編んだ帽子を被ってこの穀倉地帯を愛らしく歩いていた姿そのままの姿にあの世に行っても「どうかいつまでも幸せでありますように!」と冥福を祈って地中に埋めようとした気持ちが4000年の時を越えてまざまざとよみがえり伝わってきました。私は思わず人を愛する気持ちの永遠性と気高くも美しく、残され人々の深い悲しみに心震えました。

ある座禅会では老師との問答の中で、愛憎に耽溺して己自身に振り回されてどうにもならない自分の姿を吐露された方に対して、その老師は即座に「諸行は無常!まだつかんでいる(執着している)のかい? つかむな〜っ!」と喝を入れられたとの話をお聞きしました。

でもね、悲しみの慟哭は事実なんですからそのままでもいいじゃないですか!
執着して苦しんだっていいじゃないですか!悲しければ泣いて当然です。何をやせ我慢する必要があるのでしょうか??

時が心を癒して、あらためて喜び、楽しみ、悲しみ、苦しみ、それら全てを包含して光につつまれてこの世に生きることのすばらしさがその人の目に見えてくると思うような気が致します。

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コメント(4件)

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諸行は無常!まだつかんでいるのかい? つかむな〜っ!」のコメントですが、親鸞聖人の他力の言葉を我が行く道の手本としている私からは、それに反する自力の説法で、非常に違和感を覚えました。このあたりで、他力と自力の分かれ道があるのでしょうね。もちろん諸行は無常まではお釈迦様の仰せで違和感ないですが、このいい方はないじゃない!というのが正直な感想。ここで簡単につかむのをやめられたら仏教いりませんよ。そのつかむのをやめなくてはと言われても、やめられない自分をどうするか、まさにそこからが宗教のor仏教のスタートなんです。だから私は座禅とかはしないのです。理想の枠にはまることの出来ない自分を自覚して見つめる所から親鸞の教えは突然輝きを増してきます。善人だって救われる、まして悪人ならなおさら救われる種を宿しているのだよ、という彼の言葉が自分の中に限りない優しさで響いてくる、私はこの感動から離れられないので、、親鸞教なんです。
愛112
2008/01/03 11:08
この禅僧の言葉つきまして、いろいろ私なりに考えをめぐらせました。ひとつ思いましたのは、諸行は無常迅速であるから、「つかもうとしても、すでにつかめていない」ということが事実として言えると思います。事実としてつかめていないにもかかわらず、思いだけがそこに執着してしまって、結果的に自分を苦しめてしまう。(本人が吐露している、愛憎に振り回されるということですね)泣くときはその悲しみいっぱいを坐禅の中に包括してしまえばいい。悲しみいっぱいを「いまの自分」として坐りきればいい。そこがかの老師がおっしゃっているところの「執着するな」という本意ではないかと思うのです。「つかもうとしても、所詮はつかめないのだから、つかむことを諦めてしまえ、そうすれば、楽に泣き喚けるぞい!」といった風に理解すると分かりやすいでしょうか。
真山
2008/01/16 18:47
寛人さん、こんにちわ。
寛人さんのブログもすっかり春の景色となっていて、季節が変わっていくのだなぁという気持が湧き上がりました。ヘアートニックの臭いは今の若い人にはそんなに嫌われているのですか。確かにキツイ臭いではありますが、、、
愛112
2008/03/10 12:45
はじめまして。
なんだか懐かしいような、淡くせつなくなるようなお話ですね。

桜蘭の夢というタイトルの、ミイラのような彫刻を知人がつくっていました。帽子をかぶり、ポシェットをさげて、花を持って横たわっていました。きっと記事に書かれていたその子だったのだと思います。
たみたみ
2008/03/20 23:50

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