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自分の肉親がたとえば病気等で死に直面していて何とかそれを救おうと人事を尽くして、もうこれ以上どうにもならないところまで追込まれて救いを求めてひたすら祈っていますと、不安よりも心のやすらぎが不思議と得られたことを実際に体験された方は意外に多いのではないでしょうか?そういう経験を一度もされたことがない人は幸せな方だと思います。究極の心のやすらぎとは何であるかをつきつめて考えて、永遠に救われない弱肉強食の輪廻から逃れたい心が生じてこそ人間である証拠です。逃れたくても逃れられない苦しさの中に救いの神へ信仰心が生まれます。 そして救いの神は自己愛のみでは達成できないと考えた結論から得られた他者への愛への心の昇華に直結します。永遠の救いを希求するのも生きているからこそです。永遠は今を生きている人の心の中に存在するのですから。 「神は愛なり」と言えばキリスト教ですが、日本天台宗の祖である最澄も「悪事を己に向かへ好事を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」と同じようなことを言っています。でも現実にはこれらを実践することは大変難しいことですよね。天台宗のご本尊でもある阿弥陀如来の本願は信仰者の救済にあります。 私のような煩悩の塊のような人間はいかなる修行をしようと死ぬまで救われない現実を思うと最澄の教えの流れをくむ後の親鸞が「悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人もともと往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき」と歎異抄で説いた言葉にすがりつきたい思いです。 大乗仏教では阿弥陀如来の脇侍である観世音菩薩とは衆生を抱き込んで救ってくださると説いていますが、全くの独断と偏見かもしれませんが、実は釈迦のオリジナルな教えは観世音菩薩とは本当の救いを求めて菩薩業を修行している自分自身のことを意味しているのではないかという気がいたします。自分こそが「真に千億の仏に仕えて常に清浄の願を発意していれば苦しみが消滅する」ところまでは生きていた釈迦の直の教えであると思います。そしてそれを何も小賢しく考えなくても、己が完璧な存在ではないと本当に認識するのであれば、「まずは信じて観世音菩薩を真剣に求めてごらんなさい」というふうに転化させたのが大乗仏教の教えであると思うのですがいかがなものでしょうか? 「求めよ、さらば与えられん。」これはキリスト教の教えです。仏教もキリスト教も「苦しみから救われる道の存在をまずは信じること」から出発して説いている点では全く同じものであると思います。 |
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キリスト教徒仏教
キリスト教も仏教も自分の思い込みを捨てて絶対の真理に従えと教えています。 この絶対の真理を人格化したものが神です。 仏教では真理は、個人の中にあります。ただそれが煩悩によって見えなくなっているのだといいます。煩悩の正体は欲望で、修行によって欲望を断てば真理が表れます。本来個人に備わっている真理を、仏性と呼びます。 キリスト教では、煩悩を悪魔と人格化します。真理は個人の中にはないので、悪魔を退治するには神の力を借りなければなりません。神を信じ神に従うとき、煩悩が消えて平安の世界が約束されます... ...続きを見る |
ぼんじんの独り言 2005/08/28 13:48 |
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
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朝顔のなかに葉ごもる藍のゐろ たか志 |
老司たか志 2005/07/19 10:59 |
老司たか志さま |
寛人 2005/07/19 21:23 |
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